一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))
この本は初心者にもわかるように、読みやすい易しい言葉で書かれている。誰が読んでも書かれていることはわかるだろう。ただその「わかる」は字面どおりの「何が書いてあるかがわかる」だけではないか。むしろ易しい言葉だけに、バカにされているように感じてしまう人もいるかもしれない。
しかし一度でも小説を書いたことのある人が読めば、高い浸透率で吸収されるだろう。
それはなぜか。
この本には、構成とかキャラクター生成とか、そんなことについてはいっさい書かれていない。
書くために本当に必要なことはただひとつ。「小説が好きでたまらないこと」だ。読者としても作者としても好きになることだ。
多くの人にたりないのはたぶん、そこなのである。
書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)
えらくリクツっぽい。「書きあぐねている」ような人が読んだら怖じ気づく。実際のテクっぽいことは殆ど無くて、小説家としての姿勢のような事を延々と語っている。しかも読み物としてはあまり面白くない。『すでにある程度書ける』人達が酒の席であーだこーだ各自の意見を言い合うようなレベル。小説と随筆の違いがパッと浮かばないような人には向いてません。実用的なテクを求めている人にも向いてません。タイトル(カバーのデザイン)で受ける印象と内容とはかなりのギャップが。保坂氏個人の「小説観」を知りたい人用。全部読むのはダルい。読んで毒にはならないと思うけど。
カンバセイション・ピース (新潮文庫)
大人ばかりの家族と友人と猫の集う世田谷の木造一軒家では、世の中とは隔絶した別の種類の時間が流れていて、浮世離れしたその情景は箱庭か映画のセットをのぞいているかのようだ。「猫は家に付く」という言い方があるけれど、この物語では家に付いているのは人間なのだろう。人間達が家の内外を徘徊しながら、特徴のない日常が繰り返される。猫は家に付く象徴として登場するに過ぎない。しかし、実は猫の存在感は圧倒的で、死んでしまった猫とその生まれ変わりとも言えるような猫の話が繰り返されるたびに、単なる読者であって猫好きでもない私にはすごくうつろに響く。ときどき登場する切れ目のない長い口上も、変に理屈をこねたりする自己完結する思考のこだわりも、それはそれでこの作品を特徴づけているのだけれど、けっして心地良いものとは思えないので、これを作者言うところの「非−貯蓄型の人間」のライフスタイルとか波長とか言うものだとしたら自分にはそれがうまく共有できないのだと気が付いたが、最後に「夫婦二人が共有した記憶によって、記憶が相互に強化されて二人の視線がどちらのものかわからなくなる」というくだりを読んで、この住民と猫たちがすべての時間と空間を共有して、記憶を再確認して温存することでその貯蓄の利子で生きているのではないかと思い当たった。
長さが苦にならない作品だとは言えるが、個人的な嗜好とはあまり合わなかった。
ブルックナー:交響曲第8番
スウィトナーのブルックナーを褒める人は余り居ないが、この8番は彼の代表的名盤である。
近年のブルックナー演奏の本丸は、ヴァントであるところは衆目の一致するところ。あらゆる点でベストだろう。認めざるを得ない。これに比べればスウィトナー盤は、よく言えば大らか、悪く言えば色んな隙のある演奏かもしれないが、渾身の熱演といい、独特な表現といい、聴いた後の感動はおさおさヴァントに劣るものではない。音楽の坩堝に翻弄されて、作品の素晴らしさに酔うという点では僅かにスウィトナーを上にしたいぐらいだ。
こういう評価は、おそらく多くのブルックナー・ファン、ヴァント・ファンの賛同を得られないことは明白だが。
終楽章の唸りを上げるティンパニなど、余りにドラマティック! それでいて全体的に淡白な印象の弦楽器群は、モーツアルトで見せるスウィトナー調そのものだ。そのメリハリとも言えぬ対称性が、まことにユニークなブルックナーであり、ギチギチに謹厳なヴァントの演奏に窮屈さを感じる向きにはピッタリかも。
廉価盤も在庫が尽き、今や流通していないのが惜しまれる。ケント・ナガノやアーノンクールのディスクに飛びつく前に、これは聴くべき価値のある名演である。前者のつまらなさがわかるであろう。
そういえば、小説家の保坂和志はヴァントのブルックナーに違和感を表明していたが、一体誰の演奏を認めているのだろうか? ひょっとしてスウィトナーじゃないだろうか。カラヤンではあるまい?